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2008-08-13(Wed)

春日山城:新潟県上越市

 越後国守護代・長尾為景(上杉謙信の父)は、越後国守護職・上杉房能と不和となりこれを自刃させると、永正4年(1507)、房能の養子で上条上杉氏出身の上杉定実を擁して守護に迎える。

 永正6年(1509)7月、関東管領・上杉顕定(房能の兄)が越後に侵攻、為景、定実は一時越後府中を追われる。

 永正7年(1510)4月、為景は佐渡を経て蒲原津に上陸、このときに上条城主・上条定憲は為景派に寝返り、顕定は体制を立て直すため関東に退却しようとしたが、同年6月20日、長森原で討死した。これにより為景は事実上越後を掌握した。

 永正10年(1513)、定実は上条城主・上条定憲、琵琶島城主・宇佐美房忠らと為景に対して挙兵、永正11年(1514)宇佐美房忠ら一族が討死にして反乱は一時収束した。しかし、為景が権威獲得と権力集中を図るのに対し、上条城主・上条定憲らは国人衆の反抗が続く。こうした情勢のため為景は越後府中の平地居館である長尾氏館から春日山城に本拠を移したと考えられる。

 天文5年(1536)4月、定憲らは春日山城下まで侵攻し、為景は高梨政盛らの援軍を得て三分一原でこれを撃退した。この合戦の後、為景は嫡子・晴景に家督を譲り隠居、まもなくして病没した。為景の死により、定憲の乱は収束した。 長尾晴景は守護代を嗣ぎ、弟・景虎(後の上杉謙信)を栃尾城に派遣し、国人衆の叛乱を鎮圧した。

 天文14年(1545)、黒滝城主・黒田秀忠が晴景に謀叛を起こし、景虎は春日山城に呼び戻された。秀忠は出奔を条件に助命されたが、翌天文15年(1546)に再び黒滝城で挙兵したため、景虎はこれを討伐し、黒田氏は一族悉く自刃して滅亡した。

 このころ、晴景に代わって景虎を擁立する声が高まり、晴景と景虎は確執を深めたが、守護・上杉定実の仲介で景虎が晴景の養子となり守護代を嗣いだ。これに対して坂戸城主の長尾房長・政景父子は景虎に反抗するが、天文20年(1551)8月、房長・政景父子は降伏、越後一国は統一された。守護職・上杉定実も天文19年(1550)に死去し、越後上杉氏は断絶していたため、景虎が事実上の国主となった。

 天文21年(1552)、北条氏康に上野平井城を追われた関東管領・上杉憲政が春日山城に援助を請い、景虎は平子氏らを関東へ派遣した。また、天文22年(1553)には武田氏に所領を追われた北信濃の豪族・村上義清らが援助を求め、景虎は川中島へ出陣する(第一次川中島の合戦)、その後計5回に渡って武田軍と川中島の領有をめぐって争った。

 その後、春日山城は拡張が進められ、永禄3年(1560)の関東出陣に当たって、留守居の普請を命じ、さらに永禄5年(1563)には武田軍の越後乱入の報に際して、蔵田五郎左衛門、長尾政景、萩原伊賀守らに春日山城の普請と死守を命じている。元亀元年(1570)、越相同盟により、小田原北条氏より養子として春日山城に入った北条三郎(上杉三郎景虎)に屋敷を造営する。こうして天正元年(1573)には実城・二之郭・三之郭など春日山城は全山にわたって大城郭化した。

 天正6年(1578)3月15日、上杉謙信は出兵準備中に倒れ、急死する。そして後継者候補である2人の養子、上杉景勝(上田長尾氏に嫁いだ謙信の姉の子)と上杉三郎景虎の間で後嗣争いの内乱、御館の乱が勃発する。景勝はいち早く春日山城本城域である実城を占拠し、謙信の残した莫大な御用金を抑えた。三郎景虎は5月13日、春日山城を脱出し御館に立て籠もった。17日には御館より桃井伊豆守ら多数が春日山城を攻めたが、景勝はこれを撃退した。三郎景虎は関東へ脱出を図ろうとしたが、翌天正7年(1579)3月、鮫ヶ尾城で自刃した。こうして景勝が勝利を治めたが舞台となった春日山城も多くの破損受けた。

 慶長3年(1598)、上杉景勝は越後から会津へ転封となり、堀秀治が越前北ノ庄から入封した。慶長4年(1599)、越後に土着した上杉氏の遺臣らが一揆を起こしたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の役の後に鎮圧された。秀治は直江津に築城を開始し、慶長11年(1607)その子、忠俊は竣工した福島城に移り、春日山城は廃城となった。

  春日山城は尾根を1km以上にわたって城域としており、20条の堀切で区切られてている。郭は1000㎡を超える大規模なものだけでも12郭ある。麓から本城域の実城までの比高差は約150m、直線距離では1kmほどである。幾重もの厳重な門と郭群がありさらに堀切に遮断され、まさに戦国第一の堅城の名にふさわしい。

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2008-08-12(Tue)

躑躅ヶ崎館:山梨県甲府市古府中

 戦国時代、各地で守護の居館を中心に政治的・経済的機能を集中させた城下町の整備が推進されたが、甲斐守護の武田氏も、居館を甲府盆地東部の石和から川田(甲府市)へ移転して家臣団を集住させ、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成していた。

 躑躅ヶ崎館は、有力国人層を制圧して甲斐統一を進めていた甲斐国守護武田左京大夫信虎(武田信玄の父)が永正16年(1519)に甲府盆地中央に近い相川扇状地に築いた館で、周囲に有力家臣らの屋敷を配し、また館の背後には詰城として要害山城を築いていた。

 『高白斎記』や『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4ヶ月あまりで、居館も未完成な状態だったという。信虎は室町幕府第12代将軍足利義晴と通じ、甲斐府中の都市計画も京都の条坊を基本にしていたといわれる。
 
 クーデターにより父・信虎を甲斐より追放した武田晴信(信玄)はその後大きく所領を拡大させ、信濃、駿河、上野、遠江、三河など都合100万石を勢力下に収めるが、『甲陽軍鑑』にある「人は城、人は石垣・・・」を体現しているかのように本拠地は一貫して躑躅ヶ崎館であった。

 信玄が上洛戦の最中に病没し、その後を武田四郎勝頼が継ぐ。一時は信玄ですら落とせなかった堅城である遠江高天神城を落城させ勢いにのるかに見えたが、天正3年(1575年)の織田・徳川連合軍との設楽ヶ原の戦い(長篠の戦い)での敗戦により領国支配に動揺が生じる。

 勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが、新たに韮山の地に新府城を築き、天正9年(1581)末に躑躅ヶ崎館から移転している(結局、新府城は織田軍の侵攻時には未完成であった)。しかし、まもなく実施された織田信長による武田征伐の結果、新羅三郎源義光以来の甲斐源氏の名門武田氏は滅亡する。

 武田氏滅亡後、信長から甲斐を任された川尻秀隆が入封する。しかし、天正10年(1582)6月、京・本能寺において、天下人信長と嫡男信忠は明智光秀の謀反により落命すると、甲斐でも一揆が勃発し、秀隆も非業の最期を遂げる。その混乱に乗じて甲斐に入った徳川家康によって改めて甲斐支配の本拠地とされ、館域はさらに拡張された(天守もこのときに築かれたと思われる)。
 
 天正18年(1590)、徳川譜代の家臣である平岩親吉が入城するが、新たに甲府城を築き移ったため廃城となった。

 広さは周囲の堀を含めて東西約200m・南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万㎡)と推定され、京都室町将軍邸に習う典型的な中世式の方形居館である。

 東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪等から構成され、甲州流築城術の特徴の良く現れた虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。東曲輪で政務が行われ、中曲輪は信玄の居住空間である常御殿があった。また後に拡張された西曲輪は嫡男であった義信邸であったと考えられている。

 現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されている。




2008-08-11(Mon)

下書き

福岡県北九州市小倉北区城内
 豊前(ぶぜん)(福岡県)小倉の地に城が築かれたのは、かなり古いことらしい。この辺りは、古くから瀬戸内海を通じて畿内と結ぶ重要な地点があり、大陸からの渡来人も多かった。
その地の利に目を付けて、文永(ぶんえい)年間(1264~75)の頃に、緒方(おがた)惟(これ)重(しげ)が小城を築いたと伝えられる。当時は、勝(かつ)山(やま)城(じょう)、あるいは勝(かつ)野(の)城(じょう)とよんだらしい。
 この中世的小城を、永(えい)禄(ろく)12年(1569)に高橋(たかはし)鑑(あき)種(たね)が、また天(てん)正(しょう)15年(1587)に毛利(もうり)勝(かつ)信(のぶ)
が居城としたが、関ヶ原の合戦後、細川(ほそかわ)忠(ただ)興(おき)が、豊前一国と豊後(ぶんご)(大分県)の国東(くにさき)・速見(はやみ)
あわせて39万9千石を領して入部することになった。忠興は、とりあえず豊前の中津(なかつ)城(じょう)に入ったが、海外貿易を重視する観点から、明や朝鮮に直接面している小倉の地の利に着目し、毛利勝信の旧城を大改築して本拠とすることにした。
 小倉城の改築は、改築というよりは新城築造といったほうがふさわしいほど大規模なものであった。隣藩黒田氏の福岡城に対する対抗意識もはたらいていたという。
 慶長(けいちょう)7年(1602)鍬入式が行われ、その年のうちに旧城郭はすべて破却され、諸寺院も強制的に移転させられた。忠興自身が縄張を行い、その後もたびたび現場で指揮をとったので、工事は急ピッチで進んだ。そしてこの年の暮れには、忠興が中津城から新城に移り住んだというから異例の早さである。
 もっとも、工事がほぼ完成するのは慶長13年のことで、天守となるとさらに2年後の慶長15年にやっと完全な姿となった。
 城下町の経営も精力的に進められた。本丸を中心に南北に縄張して、北寄りに二の丸・三の丸があって家老級と重臣の屋敷が配置された。ついで、もともと紫(むらさき)川(がわ)右岸にあった寺社や漁村を撤去し、紫川を中心に東西に分け、東小倉・西小倉と命名、碁盤目状に町割りをして、武家屋敷、町家を配したが、東小倉側に人家が集中した。
 城下町小倉の特色は、他の城下町のように寺院を一か所に集中して寺町を形成することはせず、わざわざ総鎮守社として、京都から八坂(やさか)神社(じんじゃ)を勧請していることである。八坂神社は城のすぐ西側にあって、毎年7月に行われる大祭は、「太鼓(たいこ)祇園(ぎおん)」として全国に鳴りひびいている。町名に京町・大坂町・室町など上方の名をそのまま移していることも細川城下町の特徴となっている。
 細川忠興・忠(ただ)利(とし)二代にわたる約30年間の努力によって、小倉の城と城下町は、ほぼ形を整えた。ところが、寛政(かんせい)9年(1632)肥後(ひご)熊本(くまもと)の加藤氏が改易されたので、細川氏は54万石に増封されて熊本城に移ってしまった。小倉城には、播州(ばんしゅう)(兵庫県)明石(あかし)から小笠原(おがさわら)忠(ただ)真(ざね)が豊前15万石を与えられ入城した。小笠原氏は譜代大名で、以来幕末まで小倉藩主をつとめた。
太平洋戦争後、小倉の町は大きく変わってしまったが、それでも、魚(うお)町(まち)・米町(こめまち)・船場町(せんばまち)・紺屋(こんや)町(まち)など城下町の名残をとどめる町が並んでいて、鍛冶(かじ)町(まち)には森鷗(もりおう)外(がい)の旧宅が残っている。現在、小倉城址は勝山公園となって、城内の民芸資料館や、城の南にある歴史博物館は、民芸品や歴史史料を展示している。
 小倉城の特色は天守にある。天守については、小笠原家旧蔵の「小倉城絵巻」や『部(ぶ)分(わけ)御(ご)旧(きゅう)記(き)』所収の「小倉城古図」あるいはケンペルの『江戸参府紀行』など、かなり詳細な記録が残っている。外観五層、内部六階建てなのか、外観四層、内部五階建てだったのか両説あって、いずれが正しいのかまだ決着がついていない。
 いずれにしても、小倉城の天守は他城の天守にくらべると、かなり風変わりな姿をしていたらしい。専門的な考証は別として、小倉城の天守が変わった印象を与えたのは、ひとつには一層目が東西15間(1間は約1.8メートル)、南北13間という当時としては異例の大きさをもちながら、四層目は、東西7間、南北5間とひじょうに小さなものになっていた。しかし最上層は四層目よりぐっと大きくなっていた。そのため、この天守は「南蛮造り」とか「唐造り」などといわれた。
 この天守に付属して、天守の西北に着見櫓という三層の櫓があった。小倉港に出入りするためのもので、おそらく、この着(つき)見(み)櫓(やぐら)は、水軍との連絡所兼司令塔の役割を果たしていたのだろう。現在、本丸北側の多(た)聞(もん)口(ぐち)門(もん)跡のそばに復原されている着見櫓は、本来の櫓とは関係ない。
 本丸内には、壮麗な御殿がつくられていた。細川氏時代には入口の檜書院と奥の書院があり、檜書院は「金の広間」とよばれるほど華麗なつくりを誇っていた。小笠原氏時代になっても、鷹(たか)の間(ま)、白馬の間、四季の間などさまざまな名称をもつ贅を尽くした座敷が設けられていた。
 これらの建物は、天保(てんぽう)8年に火事で焼失したが、再建された本丸御殿は、さらに贅美を凝らしたもので、玄宗(げんそう)の間がとくに有名である。
幕末の慶応(けいおう)2年(1866)、小倉藩は、幕府の第二次長州(ちょうしゅう)征伐に際して、最後まで幕府のために長州と戦った。敗戦が明らかになっても降伏せず、小倉城にみずから火を放って
退去したのちも戦い続けた。
 こうして華美を誇った小倉城は、幕府滅亡とともに焼失し、石垣をわずかに残すだけである。なお現在の天守は昭和34年に復興されたもので、屋根も破風も原形に忠実とはいえない。

2008-04-14(Mon)

城を訪ねて(京都:聚楽第)

聚楽第(じゅらくだい):京都府京都市上京区

聚楽第図屏風

 豊臣秀吉は、関白になった翌年の天正(てんしょう)14年(1586)に平安宮大内裏(だいだいり)の故地である内野(うちの)に聚楽第の普請を開始する。測量に入ったのが2月、完成した聚楽第に秀吉一家が大坂城(おおざかじょう)から移ってきたのが、翌年9月であるから、わずか1年半の工事で仕上がったことになる。

 当初は、大坂に遷都し、大坂城に本拠を構える計画であった。現在の南天満付近に皇居予定地も用意していたが、天皇の反対から断念せざるをえなかったのである。
そこで、京に関白の政庁を置くことにせまられ、聚楽第が造営された。
秀吉の辞世の一節「なにわのことも 夢のまた夢」からも、大坂遷都を実現できなかった無念さを物語っているようである。

 聚楽第の名称については、宣教師ルイス・フロイスは「悦楽と歓喜の集合」の意味と述べ、『聚楽行幸記』には「長生不老の楽を聚(あつ)む」とある。
都に軍事色の濃い城を建てることがはばかられたため、京にふさわしい雅な政庁兼邸宅を意図し、秀吉が好んだ大坂城内の遊興施設・山里曲輪(やまざとくるわ)を拡大したような様相を呈したものとなったようである。
 
 この「巨大な山里曲輪」造営のため、京都・奈良の名庭から大量の石や植木を徴発したといわれる。聚楽第は、新しい時代の城であり平城の先駆となった。その豪壮にして華麗なたたずまいは戦いのための城ではなく、権力を誇示するための覇者の城と呼ぶにふさわしいものであった。
 
 天正14年9月にほぼ竣工したこの城は、その後の秀吉政権の中央政庁としての役割を果たすことになる。天正16年(1588)4月14日後陽成(ごようぜい)天皇を聚楽第に迎え、その御前において諸大名から忠誠の誓いを取り付けた。この聚楽第行幸は、豊臣政権の確立を天下に示す一大イベントであった。
 
 秀吉は、聚楽第を中心に、京を自らの政権の首都にふさわしい姿に大改造する。
まず、聚楽第の東側に諸大名の屋敷を配し一大城下町を形成した。また内裏を修築し、その周辺には公家屋敷を集めた。市街地には「天正(てんしょう)地割(じわり)」と呼ばれる新たな都市計画を施し、新たな南北道路を多く敷設した。点在していた寺院は市街地の東部と北部に集められ、「寺町」あるいは「寺之内」と呼ばれる特別区画を構成した。
 
 さらに重要なことは、市街地の周囲に「御土居(おどい)(御土居堀)」をめぐらせたことである。総延長22キロメートルに及ぶこの都市城壁(惣構(そうがまえ))は人々がそれまで全く見たことがない巨大な規模のものであった。京の都はそれまでとまったく違った新しい姿に生まれ変わることになったのである。
聚楽第・御土居図

 
 その後、秀吉の養子となり関白となった甥・秀次(ひでつぐ)の邸宅となった。しかし、秀次は石田三成らの陰謀により、謀反を疑われ自害することとなり、聚楽第もまた、その主の処罰と同時に、築いた秀吉自らの手によって破却された。
完成してわずか8年後に秀吉自らの手で破壊され、また徳川時代に入ると秀吉の痕跡を完全に消し去るために跡地は民衆に開放され、市街地となっているため残念ながら現地でその全貌を確認できるすべは無い。
 
 しかし近年の一部発掘調査により出土遺物や新たに発見された史料による研究からその位置や規模がおよそ判明してきている。
 
 なお、京都・西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)は聚楽第の遺構と伝えられており、書院には聚楽第に共通する建築・美術様式が反映されており、聚楽第の面影をよく伝えているという。京都のいくつかの寺院に伝わるこうした遺構から、秀吉全盛期に誕生した幻の豪邸の往事を偲ぶことができる。

西本願寺飛雲閣

2008-04-13(Sun)

ここで桜について・・・

花の御所と桜

 室町時代の武家邸宅の規範となった「花の御所」の一つの特色は、広大な庭を持っていることです。しかしそれは「枯山水」などではなく、必ず池があり、水が流されていました。記録によれば、室町幕府3代将軍足利義満の「花の御所」は、鴨川から引いた水が音を立てて流れていたといいます。
  
 では、花の御所にあった「花」とは何だったのでしょうか?「花の御所」という名前自体は、義満の館がおかれる以前にあった菊亭家の通称によるものといわれ、必ずしも義満の御所にあった花とは結びつかないかもしれませんが、そこに多くの花木が植えられていたことは間違いなく、たとえば、花の御所を模したといわれる守護所のひとつである尾張清須(愛知県)には、「柳の古木、藤、山吹」が植えられていたことがわかり、洛中洛外図屏風に描かれた室町将軍邸の庭をみると、紅白の梅はあったようです。
 
 実はこの他に、義満の花の御所に確実にあった花があるのです。それは、糸桜(枝垂桜)で、義満が花の御所を造営した際の永和四年(1378)3月28日、近衛道嗣の日記『愚管記』には、義満が近衛邸の庭から糸桜を所望した旨の記事があります。近衛邸の糸桜は大変有名で、洛中洛外図屏風にも描かれていますが、その「小木」が花の御所にも移植されているのです。苗木なのかもしれません。
 
 この糸桜がその後どうなったのかは定かではないのですが、洛中洛外図屏風の将軍邸(歴博甲本の「柳の御所」と、それ以降に再建された「花の御所」)には糸桜と特定できるようなものはないようなので、最初に花の御所が荒廃した際に枯れてしまったのかもしれません。
 
 しかし、花の御所の糸桜の子孫かもしれない糸桜が現存しています。島根県益田市にある医光寺は、石見の有力国人益田氏が保護した崇観寺の後身なのですが、そこには雪舟庭園として名高い庭園があります。実際に雪舟の作かどうかは確証はないのですが、山の斜面に面した地形からは、江馬氏館(岐阜県)に似て、室町期の武家庭園の典型と思われます。益田氏は、15世紀にはしばしば上洛し、将軍邸での正月参賀にも参加しています。後の益田藤兼は、将軍義藤(後の義晴)から「藤」の字の編偉を受けています。

 そして、この医光寺の庭園には、樹齢300年と言われる糸桜の古木が、今も滝のように見事な花をつけています。斜面に無理に植えられたこの糸桜は庭園の中で重要な位置を占めており、また、付近に糸桜が自生していないので、どこからかから持ち込まれて意図的に植えられたものであることは間違いないと思われます。したがって、益田氏が京都滞在時に将軍から頂戴して、帰国後に自らの館と密接な関係がある禅寺に庭園を造り、「本家」の花の御所の故実に倣って植えたものかもしれません。現在の木は既に2代目か3代目となるはずですが、現に後継の若木は寺内ですでに育てられており、こうした由緒ある木は、このようにして増やされ跡を継いでいっているのでしょう。
 
 千葉県四街道市の福星寺という、戦国期の城館跡に立てられたお寺があります。ここに有名な糸桜の古木があるのですが、本寺である金光院という千葉市内の寺院から江戸初期に分けられた物のようです。この金光院は中世に遡る千葉氏ゆかりの寺であり、やはり元をたどれば花の御所の糸桜に行き着く可能性があります。また千葉氏一族の東氏の館(岐阜県)は、立派な庭園を持ち、典型的な花の御所の写しと思われます。
 
 福星寺の糸桜の花は、花の色は淡く、花弁も少なく、枝垂れ桜としては現在一般的らしいエドヒガン系の品種とは明らかに異なります。まだ福星寺の花は見たことはありませんが、写真で見る限りでは、医光寺と同じ品種のようです。
 
 枝垂れ桜の古木のいくつかは、もしかしたらこのような「花の御所」とその地方への伝播につながる歴史的由緒を持っているのかもしれません。これから、DNA鑑定や炭素測定法で確認されていくと思いますが、実に興味深く感じます。

〔参考文献〕
『国立民俗博物館所蔵 洛中洛外図屏風(甲本)』
『史料集 益田兼堯とその時代―益田家文書の語る中世の益田(2)』
『史料集 益田藤兼・元祥とその時代―益田家文書の語る中世の益田(3)』
(益田市教育委員会発行。1996、1999)
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