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2008-08-11(Mon)

下書き

福岡県北九州市小倉北区城内
 豊前(ぶぜん)(福岡県)小倉の地に城が築かれたのは、かなり古いことらしい。この辺りは、古くから瀬戸内海を通じて畿内と結ぶ重要な地点があり、大陸からの渡来人も多かった。
その地の利に目を付けて、文永(ぶんえい)年間(1264~75)の頃に、緒方(おがた)惟(これ)重(しげ)が小城を築いたと伝えられる。当時は、勝(かつ)山(やま)城(じょう)、あるいは勝(かつ)野(の)城(じょう)とよんだらしい。
 この中世的小城を、永(えい)禄(ろく)12年(1569)に高橋(たかはし)鑑(あき)種(たね)が、また天(てん)正(しょう)15年(1587)に毛利(もうり)勝(かつ)信(のぶ)
が居城としたが、関ヶ原の合戦後、細川(ほそかわ)忠(ただ)興(おき)が、豊前一国と豊後(ぶんご)(大分県)の国東(くにさき)・速見(はやみ)
あわせて39万9千石を領して入部することになった。忠興は、とりあえず豊前の中津(なかつ)城(じょう)に入ったが、海外貿易を重視する観点から、明や朝鮮に直接面している小倉の地の利に着目し、毛利勝信の旧城を大改築して本拠とすることにした。
 小倉城の改築は、改築というよりは新城築造といったほうがふさわしいほど大規模なものであった。隣藩黒田氏の福岡城に対する対抗意識もはたらいていたという。
 慶長(けいちょう)7年(1602)鍬入式が行われ、その年のうちに旧城郭はすべて破却され、諸寺院も強制的に移転させられた。忠興自身が縄張を行い、その後もたびたび現場で指揮をとったので、工事は急ピッチで進んだ。そしてこの年の暮れには、忠興が中津城から新城に移り住んだというから異例の早さである。
 もっとも、工事がほぼ完成するのは慶長13年のことで、天守となるとさらに2年後の慶長15年にやっと完全な姿となった。
 城下町の経営も精力的に進められた。本丸を中心に南北に縄張して、北寄りに二の丸・三の丸があって家老級と重臣の屋敷が配置された。ついで、もともと紫(むらさき)川(がわ)右岸にあった寺社や漁村を撤去し、紫川を中心に東西に分け、東小倉・西小倉と命名、碁盤目状に町割りをして、武家屋敷、町家を配したが、東小倉側に人家が集中した。
 城下町小倉の特色は、他の城下町のように寺院を一か所に集中して寺町を形成することはせず、わざわざ総鎮守社として、京都から八坂(やさか)神社(じんじゃ)を勧請していることである。八坂神社は城のすぐ西側にあって、毎年7月に行われる大祭は、「太鼓(たいこ)祇園(ぎおん)」として全国に鳴りひびいている。町名に京町・大坂町・室町など上方の名をそのまま移していることも細川城下町の特徴となっている。
 細川忠興・忠(ただ)利(とし)二代にわたる約30年間の努力によって、小倉の城と城下町は、ほぼ形を整えた。ところが、寛政(かんせい)9年(1632)肥後(ひご)熊本(くまもと)の加藤氏が改易されたので、細川氏は54万石に増封されて熊本城に移ってしまった。小倉城には、播州(ばんしゅう)(兵庫県)明石(あかし)から小笠原(おがさわら)忠(ただ)真(ざね)が豊前15万石を与えられ入城した。小笠原氏は譜代大名で、以来幕末まで小倉藩主をつとめた。
太平洋戦争後、小倉の町は大きく変わってしまったが、それでも、魚(うお)町(まち)・米町(こめまち)・船場町(せんばまち)・紺屋(こんや)町(まち)など城下町の名残をとどめる町が並んでいて、鍛冶(かじ)町(まち)には森鷗(もりおう)外(がい)の旧宅が残っている。現在、小倉城址は勝山公園となって、城内の民芸資料館や、城の南にある歴史博物館は、民芸品や歴史史料を展示している。
 小倉城の特色は天守にある。天守については、小笠原家旧蔵の「小倉城絵巻」や『部(ぶ)分(わけ)御(ご)旧(きゅう)記(き)』所収の「小倉城古図」あるいはケンペルの『江戸参府紀行』など、かなり詳細な記録が残っている。外観五層、内部六階建てなのか、外観四層、内部五階建てだったのか両説あって、いずれが正しいのかまだ決着がついていない。
 いずれにしても、小倉城の天守は他城の天守にくらべると、かなり風変わりな姿をしていたらしい。専門的な考証は別として、小倉城の天守が変わった印象を与えたのは、ひとつには一層目が東西15間(1間は約1.8メートル)、南北13間という当時としては異例の大きさをもちながら、四層目は、東西7間、南北5間とひじょうに小さなものになっていた。しかし最上層は四層目よりぐっと大きくなっていた。そのため、この天守は「南蛮造り」とか「唐造り」などといわれた。
 この天守に付属して、天守の西北に着見櫓という三層の櫓があった。小倉港に出入りするためのもので、おそらく、この着(つき)見(み)櫓(やぐら)は、水軍との連絡所兼司令塔の役割を果たしていたのだろう。現在、本丸北側の多(た)聞(もん)口(ぐち)門(もん)跡のそばに復原されている着見櫓は、本来の櫓とは関係ない。
 本丸内には、壮麗な御殿がつくられていた。細川氏時代には入口の檜書院と奥の書院があり、檜書院は「金の広間」とよばれるほど華麗なつくりを誇っていた。小笠原氏時代になっても、鷹(たか)の間(ま)、白馬の間、四季の間などさまざまな名称をもつ贅を尽くした座敷が設けられていた。
 これらの建物は、天保(てんぽう)8年に火事で焼失したが、再建された本丸御殿は、さらに贅美を凝らしたもので、玄宗(げんそう)の間がとくに有名である。
幕末の慶応(けいおう)2年(1866)、小倉藩は、幕府の第二次長州(ちょうしゅう)征伐に際して、最後まで幕府のために長州と戦った。敗戦が明らかになっても降伏せず、小倉城にみずから火を放って
退去したのちも戦い続けた。
 こうして華美を誇った小倉城は、幕府滅亡とともに焼失し、石垣をわずかに残すだけである。なお現在の天守は昭和34年に復興されたもので、屋根も破風も原形に忠実とはいえない。
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